CONTACT
PROJECT
XSEMI2020

XSEMI 2020 前編「わけるから、わからない😹ー個とパブリックのあいだを考えるー」

2016年にスタートした「未来につなぐふくい魅える化プロジェクト make.f」。広義のデザインの視点から、未来に問いを投げかけるプロジェクトの創出を目指してきました。5期目となる2020年度は、2日間の学びの場・XSEMIと、約80日間のプログラム創造の場・XSCHOOLが開講。

「わけるから、わからない」を共通テーマに、分業化した仕事、公と私、医療や介護、自然環境などなど、分けることで本質が捉えづらくなるさまざまな事柄を、自分ごとへと解きほぐす方法について考えていきます。

今回は2020年11月7、8日に開催されたXSEMIの様子をレポートしていきます。

インターネット上で福井とつながる全国各地の参加者たち

未だ出口の見えないコロナ禍の影響を鑑み、初のオンライン開催となった今年のXSEMI。

ゲストスピーカーとディレクター陣は、福井市浜町エリアにあるリノベーションビル「Craft Bridge」へと集い、参加者との接続を待ちます。

開始時間が近づくと、参加者のみなさんが続々とZoomへ入室。音声ミュートで待機するそれぞれのウィンドウからは、期待や不安、緊張といったさまざまな表情が垣間見えます。

▲全国から福井につながる参加者たち

 

開始予定時刻の13時30分を迎え、いよいよXSEMI2020がスタート。

北は岩手県から南は佐賀県まで、学生、公務員、デザイナー、建築士といったさまざまな肩書きをもつ約60名の参加者たちが、距離という制約を超えてオンライン上でつながりました。まずは、昨年度に引き続きXSEMI/XSCHOOLの現地ディレクターを務めるデザインスタジオ・ビネンの坂田守史さんからイントロダクションです。

▲XSEMI2020のディレクター陣。左から白井瞭さん、内田友紀さん、多田智美さん、坂田守史さん

 

今年のXSEMIのテーマは「わけるから、わからない😹- 個とパブリックのあいだを考える -」。

「答えというよりも、問いかけのようなもの。急激に変化する社会のなかで、さまざまなことが分けることでわかりやすくなっているように思える一方、分けることで本質が捉えづらくなる場面にも直面しているんじゃないか。もしかしたら、“わけないから、わかる”、“わからないから、おもしろい”ということもたくさんある気がします」。

そんな仮説をもとに、物事の境界、場所、時間軸を超えて俯瞰したリサーチと実践を続けているゲストスピーカーとともに、自分自身とパブリックの間をどのようにつないでいくことができるのかを考えていきます。

例年、参加者同士が顔を突き合わせてそれぞれの悩みも発見も共有することで場をつくってきたXSEMIですが、オンライン開催のため、いつもとは勝手が異なります。それでも、できる限りスピーカーと参加者、あるいは参加者同士が互いの存在を感じながら学び合いを深めることができるよう、参加者とのコミュニケーション手段としてzoomのチャット機能を活用しながら、同時にオンラインホワイトボード「miro」とQ&A/アンケートサービス「Slido」も導入。複数のツールを用いながらインタラクティブなコミュニケーションの場が用意されました。

▲オンラインホワイトボード「miro」

 

わからないを大切に、ともに考え、学びあう二日間がここからはじまります。


磯野真穂さんと考える、「わかるって、なんだろう?」

一人目のトークゲストは、人類学者・磯野真穂さん。
このセッションでは、「わかること」「わからないこと」というそれぞれの事象が、私たちの身近な生活のなかにどんな現象をもたらすのか、文化人類学の視座と知見を手がかりとしながら思考を深めていきます。

磯野真穂|人類学者
専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。

 

「さっそくですが、『わかりたい』と思うときってどんなときですか?」
一方的に話をするのが苦手という磯野さんは、聞き手となるディレクター陣や画面の向こうでつながる参加者に積極的に話を振りながらトークを進行していきます。会場や参加者からも「取材にいくとき」「好きな人ができたとき」など、さまざまな意見が寄せられるなか、磯野さんが用意してくれていた回答は「出逢ったとき」。

「ある対象に対して関心を向けて、かつその対象が自分の認識の枠組みではなんだかよくわからないとき、かつ、その対象と関わっていきたい、あるいは関わって行かなければいけないという状況のときにおそらく『わかりたい』という気持ちが現れてくるのだと思います」。

そのほかに「わかる」「わからない」について磯野さんが用意してくれた問いは4つ。
・わかると何ができる?
・わからないと何ができない?
・わかると何ができない?
・わからないと何ができる?

これらの問いをもとに、参加者は自らの経験を振り返りながら、一つひとつの問いに対して自分なりの考えを巡らせていきます。

なかでも「わかると何ができない?」「わからないと何ができる?」の問いは、文化人類学の本質にも触れるような問い。ここから話題は文化人類学と「わかる/わからない」の接点に移っていきます。

▲ディレクターの内田さん、白井さんを交えたセッション形式で進められた磯野さんのトーク

 

「文化人類学とは、『わかった』ことを一度わからないことにする学問なんです。」そう言って磯野さんは、文化人類学がなぜ「わかった」ことを「わからない」ことにする必要があるのかを説明してくれました。

その事例として磯野さんが取り上げたのは、19世紀のタスマニア島で起こった歴史的ジェノサイド。イギリス人の上陸以降、100年にも満たない間に現地に住んでいたアボリジニが0人になった出来事で、このジェノサイドの背景となる思想には当時の⻄欧社会に浸 透していた「単系進化論(人間は⻄欧人を中心として一直線に進化していくもの)」を完全に正しいものだと「わかった」つもりになってしまったために起こった悲劇だと言います。(特に植民地主義時代以降の)文化人類学が「わかった」ことを「わからない」ことにするのは、この事例に代表される植民地主義時代に起こっていたさまざまな「わかったつもり」を崩すことに意義を見出しているからなのだそう。

そして、単系進化論のような思想に対して文化人類学が見出した考え方が、『文化相対主義』というわかり方です。

「それぞれの人間の生き方は、それぞれの地理的・経済的・政治歴史的背景に埋め込まれていて、そのなかではじめて意味や価値が出てくるものであるから、その文化が置かれている文脈を剥ぎ取って自分たちの世界にもってきて優劣をつけるのはやめましょうというのが、文化相対主義ですね」。

▲文化や人間に序列をつけることはできないという文化相対主義のイメージ

 

私たちは、自分たちの「当たり前」に気づかないあまり、ありとあらゆる出来事を自分の世界観のなかに入れて良し悪しを判断してしまいがちです。そんなとき、簡単に「わかった」ことにせず相手の文脈に入り込み、「わからない」なかに身をおいてみることで、対話と理解の回路を開いていく。磯野さんは、これが文化人類学の素晴らしさだと語ります。

「わたしたちの社会は、わかるようにすることで不安を消してきた社会。でも安心できる未来になったかといえばそうではないはずなんです。すべてのことがわかるようにできるはずだという思いこそが私たちを不安にしているということもあると思うんです」。

ものすごい早さで変化していく社会のなかで、「わからないもの/こと」との遭遇を大前提としながら「わからないまま進んでみる」「わからないもの/ことにあえて出逢ってみる」という勇気を、私たちはもっと大切にしていくべきなのかもしれません。

 

菅俊一さんと考える、「無意識を意識化する技と術」

2つ目のセッションのゲストは、コグニティブデザイナーという肩書きをもつ菅俊一さん。「コグニティブ(cognitive)」は「認知」や「認識」といった意味であり、菅さんはその鋭い観察眼を用いて人々の認知をメタ的に捉えたデザインや表現活動を手がけています。

このセッションでは、菅さん自身もデザインや表現の過程のなかで大切にしているという「見過ごしがちなものについて気づいていく」ことについて、そもそも私たちは何をどんなときになぜ見落としてしまうのか、気づくためにどんなことが必要なのか、さまざまな事例やワークを通して学んでいきました。

菅俊一|コグニティブデザイナー / 表現研究者 / 映像作家 / 多摩美術大学美術学部統合デザイン学科専任講師

1980年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。人間の知覚能力に基づくコグニティブデザインの考え方による問題設計や新しい表現の研究開発を軸に、社会に新しい価値を提案することを活動の主としている。

 

「今みなさんは椅子に座っていると思います。が、一度立っていただいて、そしてまた座ってください。」

そんな問いかけから、まずは「観察すること」について考えます。

「座るときには、『座る』という動詞ひとつで終わらせない体の動かし方をたくさんしていると思います。そういうことが無意識のなかで『座る』という動詞に圧縮されていて、(自分では)気づかない領域に入っている。でも本当に“座る”ということに真剣に考えようとしていくと、どうやって座っているのか、何を持って体重をかけていいと判断しているのか、たくさん要件があるはず。そういったこと一つひとつに気づいて「なぜ」と考えていくことが、ものをつくることやデザインには大切」と菅さん。

では、物事を観察し、気づかない領域に入ってしまっているものから「なぜ」を生み出していくためには、どんな技術が必要となるのでしょうか。

私たちには外見で人を判断する傾向があるように、自分の目に入ってくる情報に自らの知識や経験からくる「先入観」を作用させた状態で世界をみており、そこにはどうしても偏りが生まれます。偏りは情報のフィルターとなり、実際には「見えている(あるいは感じている)」はずのものを「見落とし」てしまうのです。

そんなときに重要なのは、偏りを直そうとすることではなく、なんらかの「先入観」を通してみていることを自覚し、「先入観を操作する技術」を身につけることだと菅さんは言います。

ひとつの例として紹介してくれたのが、「制約としての踏み台」をつくるという技術。
例えば、広い円の中心に立たされ、「どの方向にでも進んでいい」と言われてもどうしたらよいのか迷ってしまいます。しかし、目の前に踏み台をつくり、そこに上がってしまえば、あとは(少なくとも後ろや横ではなく)前方向にジャンプして進むしかありません。ここでは、踏み台が自分の進む方向を狭める「制約」として働いていますが、言い方を変えれば進むべき方向を絞り込む役割を果たしてもいます。

同じように、何かを観察する際、「なんでもいいから」と無限に選択肢を与えられると手や思考が停止してしまいがちです。でも、自らそこに制約(観察や思考の条件)をつくることで観察の方向性をある程度定めることができるといいます。

▲「踏み台としての制約」のイメージ

 

物理的に目の位置を変えてみることで、ある属性の人の視点を捉えやすくなったり、痕跡に着眼することで人間の癖を見つけやすくなったり、制約の作り方は人それぞれ。

「よい制約が見つかると、途端にいろいろなものが見えてくるようになります。自分にとって見つけやすい制約を探るというのが、観察の技術を磨くトレーニングの大切な第一歩かなと思います」。

最後に、観察の技術を実践してみるための「日常の景色のなかから『人間の工夫の痕跡』を見つけてみる」という宿題が菅さんから参加者にプレゼントされ、二つ目のセッションも無事に終了しました。

 

ラウンドトーク

XSEMI1日目の最後は、磯野さんと菅さんにXSEMIディレクターが加わってのラウンドトーク。菅さんのトーク終了後、控え室で菅さんへの質問が止まらなかったという磯野さんから、再度菅さんに質問を投げかけていくかたちでトークがスタートしていきました。

▲磯野さんの軽快な問いかけからラウンドトークがスタート

 

磯野さん:菅さんがお話のなかで使っていた「制約を加える」という言葉は、人類学だと「視点を定める」とか「問いを立てる」という言葉にあたると思います。異なる表現になるのは、菅さんがデザインを専門とされていることが関係しているのでしょうか?

 

菅さん:デザイナーって、誰かから「なんとかしてください」と言われることが多い仕事なんです。そこにはお金がないとか、時間がないとか必ず条件がついていて、そのなかでどうにかするのが、腕の見せどころでもあったりします。多くの人はそれを足枷のように捉えてしまいますが、条件が自由過ぎても結局何もできない。だから制約は、創造性において実は大事な要素なのかもしれないと思って、その言葉を使っている節がありますね。

 

磯野さん:なるほど。使われるフレーズが違っていて面白いなと思っていました。医療の文脈にいると、「正しい知識」とか「客観的な見方」とか、コロナの場合だったら「正しく恐れる」という言い方がよく使われたりします。そういう「正しい」とか「客観的」という言葉ってこの社会に跋扈(ばっこ)していると思うんですが、そのことについてはどう思いますか?

 

菅さん:「誰しもに当てはまる」ということは、結構怪しいと思っていて。違いを受け入れて考えていくときに、結局その人が何をみて、何を感じているのかでしかないと思っています。客観的なデータがないと不安という状況もわかりますが、まずはあなたがどう思ってるのかがないと意味がない。主観的に自分がどう思っているかを明らかにすることから考えた方がいいと思いますね。

 

磯野さん:菅さんの「先入観はとれない」みたいな話がすごくいいなと思って。先入観は変えられないものだからこそ、今の社会で必要なのは「うまくすれ違うこと」かなと思いました。お互いに先入観を持っていて、どうにもできないことってあるじゃないですか。だから、すれ違うデザインみたいな。そういうのって必要なんじゃないかなって思うんです。

 

菅さん:「みんなにとっていいもの」なんてないという前提にたつことが大事かもしれません。一回つくったら終わりではなく、修正してアップデートできる状況をつくっておくこと。何事も最終的には自分で変えるというのが一番いいと思っていて。デザインという言葉は早く民主化して、言葉が話せたり文字がかけたりすることと同じレベルになったほうが健全だと思います。早くそういう状況にしなくてはとずっと思っているんですけどね。

 

内田さん:今の話は、実は今回のXSEMIの副題でもある「個とパブリックのあいだを考える」ということともつながってると思います。役割や立場が固定的になっているのは少し違うんじゃないかという問いが私たちの背景にあって。「この役割は行政がやる」とか、「何かを学ぶのは学校で」ではなく、誰でもがつくっていける/やっていけるということが大事かもしれない。それを菅さんが軽やかにおっしゃっていたのが印象的です。

 

自分の価値観や好みを理解することの重要性、「既知の無知化」にみる文化人類学とデザインの思考の近似性、ハードモードに移行する現代社会のなかで改めて「主観」からスタートすることの大切さなど、ラウンドトークはこのあとも大盛り上がり。

中締めのあともアフタートークで参加者と実際に言葉を交わし合いながら対話を深めました。

 

オンラインでの開催、1日目は滞りなく終了となりました。

2日目の様子は、後編に続きます。

(text by Kaname Takahashi)


Related article関連記事

PROJECT